3月に大雪ふるなよ!2021年03月04日 12:47

 札幌にも40センチ近い大雪があった。しかも排雪業者との契約が切れた日に。しかも風が強く吹き溜まりがすごかった。

 仕方ないからせっせと近くの公園まで運んだ。30回くらい運んだろうか。とりあえず、家の前に車が置けるようになったから、いいけど、3月になってからこんな大雪ふるなよ。

 除雪機もあるが、もう今期は使うことはないだろうと、一番奥の位置に置いてあったから、そこまでたどり着くことは絶望的だったし、除雪機は吹き飛ばすところがふんだんにあるときは有効だけど、うちみたいに狭いところではあまり使う気になれない。

 しかし、公園に30回も雪を運べたことは画期的なことだと思う。
 今年は70歳になる節目、先日近くに住むA氏が、年は確か一つ上のはずだが、一生懸命雪かきしていたのを見たが、老け込んでなどいられないと思う。

 でもでも、老いというのは確実に迫ってきている。
 まず目だ。今年は運転免許の更新があるけど、メガネが作れないのだ。なぜなら朝と夕方では文字や風景の見え方が全然違い、朝は新聞が読めても夕方にはほとんど読めなくなる。仕方がないので、拡大鏡で細かい字を見ることになる。寝る前の読書も拡大鏡が必須だ。

 それと、爪の伸びのことは前にも書いた気がする。
 最近は足。歩みが遅くなるのは前にも書いたが、それにもまして、平らなところで突っかかる、階段を上るとき足が上がらなくなる、降りるときは何かにつかまらないと不安になるなど、まったくの年寄りだ。
 特にコロナ時代になってから、散歩にもいかなくなって、足の弱り具合が著しい。

 ここらで年寄りは二つのタイプになるだろう。
 ひとつは「年寄りの冷や水タイプ」で、とにかく負けじと頑張る年寄りがいるでしょう。よせばいいのに頑張ってから転んで寝たきりになりやすいタイプの人。
 もう一つは「私は年寄り、席を譲ってタイプ」。とにかく敬老精神を強要していく。自分はこのタイプかな。

 年寄りだから、優しくしてよね。
 じゃんじゃん。

「他力」ということ2021年03月10日 10:14

 突然なんだと思うかもしれないが、コロナも落ち着きつつあるし、首都圏をのぞいて、自分の人生について考えるために、五木寛之の「他力」という本を読んでみた。
 実は2回目になるのだが、相当前なので、まったく初回と同じ感じである。すっかり忘れた。完全に。

 それで、「他力本願」という熟語があるが、あまり良い意味では使われないだろうと思うけど、本来は仏教用語で、阿弥陀如来が菩薩から如来になるときに「世の人すべて、一切の分け隔てなく、救うことができないなら、自分は如来にならない」というわがままな「誓い(=本願)」をたて、それが18番目の本願となっている。
 これにより「南無阿弥陀仏」という称名は、自ら唱えるものではなく、阿弥陀様の本願により「他力」によって唱えているものであるという考え方で、この「一切無碍(まったく区別も差別もない)」に従うことで、親鸞聖人の「悪人正儀」という考え方に至る。
 つまり、「南無阿弥陀仏」のご称名は「わが、はからいに、あらず」ということ。
 この説明で「わかる」はずはないのだ。書いている本人もわかってないのだから。

 しかし、「他力」という考え方は、非常に面白いと思う。
 たしかに、人生のいろんな場面で、間もなく70歳になろうとするこの身からすると、「わが、はからいに、あらず」な場面はいくつも出くわすものだ。
 道路を車で走っていても、あと0.1秒違ったら正面衝突なんて場面はいくらでもあって、「ひごろひごろ」と思うのだが、神仏に祈る気になることは五万とある。

 ところで、戦後の復興と高度成長、数度の経済的なショック、今回のコロナ禍も含め、宗教の希薄化が著しく、今やほとんどが無宗教であるのは日本と中国・韓国くらいだろうか。
 我が国では、なんやら言う宗教団体の代表政党が与党となっているが、必死に隠しつつ、政教分離どころか、まったくの一体化で国民をだましているが、そろそろ限界だろう。

 実は自由経済と宗教には深い関係があるものだ。
 「え!うそ~」と思うかもしれないが、まったくの自由経済が野放しにされると、中国のように結局は人をだまして金儲けすることが是認される社会となる。
 つまり、事業活動と生活維持と社会還元(宗教的動機)がサイクルとして機能しない限り、有限な地球資源が枯渇することは必至である。したがって、際限のない「経済成長」は他国への侵略でもその過程に組み込まなければ、成立しないものである。

 五木の「他力」に書かれていることの一つはこのことであった。
 もう一つ、宗教の希薄化と自殺問題がこの本のテーマとなっているが、それについては、次の機会にしよう。
 疲れた。

 じゃんじゃん。