「他力」ということ2021年03月10日 10:14

 突然なんだと思うかもしれないが、コロナも落ち着きつつあるし、首都圏をのぞいて、自分の人生について考えるために、五木寛之の「他力」という本を読んでみた。
 実は2回目になるのだが、相当前なので、まったく初回と同じ感じである。すっかり忘れた。完全に。

 それで、「他力本願」という熟語があるが、あまり良い意味では使われないだろうと思うけど、本来は仏教用語で、阿弥陀如来が菩薩から如来になるときに「世の人すべて、一切の分け隔てなく、救うことができないなら、自分は如来にならない」というわがままな「誓い(=本願)」をたて、それが18番目の本願となっている。
 これにより「南無阿弥陀仏」という称名は、自ら唱えるものではなく、阿弥陀様の本願により「他力」によって唱えているものであるという考え方で、この「一切無碍(まったく区別も差別もない)」に従うことで、親鸞聖人の「悪人正儀」という考え方に至る。
 つまり、「南無阿弥陀仏」のご称名は「わが、はからいに、あらず」ということ。
 この説明で「わかる」はずはないのだ。書いている本人もわかってないのだから。

 しかし、「他力」という考え方は、非常に面白いと思う。
 たしかに、人生のいろんな場面で、間もなく70歳になろうとするこの身からすると、「わが、はからいに、あらず」な場面はいくつも出くわすものだ。
 道路を車で走っていても、あと0.1秒違ったら正面衝突なんて場面はいくらでもあって、「ひごろひごろ」と思うのだが、神仏に祈る気になることは五万とある。

 ところで、戦後の復興と高度成長、数度の経済的なショック、今回のコロナ禍も含め、宗教の希薄化が著しく、今やほとんどが無宗教であるのは日本と中国・韓国くらいだろうか。
 我が国では、なんやら言う宗教団体の代表政党が与党となっているが、必死に隠しつつ、政教分離どころか、まったくの一体化で国民をだましているが、そろそろ限界だろう。

 実は自由経済と宗教には深い関係があるものだ。
 「え!うそ~」と思うかもしれないが、まったくの自由経済が野放しにされると、中国のように結局は人をだまして金儲けすることが是認される社会となる。
 つまり、事業活動と生活維持と社会還元(宗教的動機)がサイクルとして機能しない限り、有限な地球資源が枯渇することは必至である。したがって、際限のない「経済成長」は他国への侵略でもその過程に組み込まなければ、成立しないものである。

 五木の「他力」に書かれていることの一つはこのことであった。
 もう一つ、宗教の希薄化と自殺問題がこの本のテーマとなっているが、それについては、次の機会にしよう。
 疲れた。

 じゃんじゃん。

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