摩訶不思議?な体験 ― 2012年11月05日 14:32
先の土日は岡山でしたから、この土日はうちでゆっくり休みました。いつもの通り痴呆犬の介護で過ごしましたが。
それで、土曜日の昼下がり、痴呆犬と手をつないで、「おまえも大変だよなぁ。俺も結構大変だけど。だけど、うちに来てくれて、いっぱい可愛さを与えてくれて・・・、ありがとな。おまえのお母さんやお父さんはもうとっくにこの世にいないだろうけど、寂しがっていないかな。」なんてつぶやきながら、ウトウトしていたら、急に頭の中に犬の目線の情景が、つまり地表すれすれの情景が、きっと近くの稲積公園だと思うけど、走り回っている情景が流れ込んできたさ。
こんなことってあるんだなぁ。やつも寝ていたから、きっと夢を見ていたんだろうと思うけど、公園で走っている夢を見ていたんじゃあないかと思った。時々ぐっすり寝ているときに、足だけばたばた動かすときもある。そんなときはきっと楽しかったときや、おっかなかったときの夢を見ているのかもしれない。
もちろんそんなバカなことあるかいって気もするけど、もしほんとにシンクロしていて、同じ情景を見れていたら、うれしいことだね。
痴呆犬は確実に「右肩下がり」で終わりに向かっています。ほんとに家に来てくれて、楽しかったんだろうか、良かったんだろうかなんて、今更つまらないことも考えたりしていたから、そんな気持ちが、ウトウトで情景になったかもしれないけど、私はあのとき痴呆犬とシンクロしていたと思います。
だけど世の中をいろいろ調べると、痴呆犬の介護を早々に切り上げて保健所に連れて行くのも多いのだとか。命というものへの関心や価値観が狂ってきているのだろうか。いま賑わしている大阪だかの連続殺人や、DV(家庭内暴力)やネグレクト・虐待が、全体の数は減ってきていても、悪質化していると思うし、元々あってはならないものだと思うから、なんとしてもなくしたい。特に子供の虐待などもってのほかだ。
機能不全家庭とか機能不全家族という言葉があります。我が家はきっと典型的な機能不全だったのかもしれません。なにしろ亭主は一年中走り回っていて、ろくに家族を顧みなかったから。子育てはつれあいに任せっぱなしで、子供と遊んだ記憶はあまりありません。自分としては、「子供が過ごしやすい、良い社会をつくるために一生懸命頑張ったのに・・・」と言い訳しながら生きてきたのかもしれませんし、あまりそんなことも考えずに生きてきたのかもしれません。
幌延闘争の時や泊100万人直接請求の時は、本当にそう思いました。「こんなものを我が子の将来につなげてはならない」と思って、頑張りましたけど、いま人生の終盤において、それで良かったのかと言うことも考えたりします。
人生ってほんとに一度っきりなんですね。
じゃんじゃん。
それで、土曜日の昼下がり、痴呆犬と手をつないで、「おまえも大変だよなぁ。俺も結構大変だけど。だけど、うちに来てくれて、いっぱい可愛さを与えてくれて・・・、ありがとな。おまえのお母さんやお父さんはもうとっくにこの世にいないだろうけど、寂しがっていないかな。」なんてつぶやきながら、ウトウトしていたら、急に頭の中に犬の目線の情景が、つまり地表すれすれの情景が、きっと近くの稲積公園だと思うけど、走り回っている情景が流れ込んできたさ。
こんなことってあるんだなぁ。やつも寝ていたから、きっと夢を見ていたんだろうと思うけど、公園で走っている夢を見ていたんじゃあないかと思った。時々ぐっすり寝ているときに、足だけばたばた動かすときもある。そんなときはきっと楽しかったときや、おっかなかったときの夢を見ているのかもしれない。
もちろんそんなバカなことあるかいって気もするけど、もしほんとにシンクロしていて、同じ情景を見れていたら、うれしいことだね。
痴呆犬は確実に「右肩下がり」で終わりに向かっています。ほんとに家に来てくれて、楽しかったんだろうか、良かったんだろうかなんて、今更つまらないことも考えたりしていたから、そんな気持ちが、ウトウトで情景になったかもしれないけど、私はあのとき痴呆犬とシンクロしていたと思います。
だけど世の中をいろいろ調べると、痴呆犬の介護を早々に切り上げて保健所に連れて行くのも多いのだとか。命というものへの関心や価値観が狂ってきているのだろうか。いま賑わしている大阪だかの連続殺人や、DV(家庭内暴力)やネグレクト・虐待が、全体の数は減ってきていても、悪質化していると思うし、元々あってはならないものだと思うから、なんとしてもなくしたい。特に子供の虐待などもってのほかだ。
機能不全家庭とか機能不全家族という言葉があります。我が家はきっと典型的な機能不全だったのかもしれません。なにしろ亭主は一年中走り回っていて、ろくに家族を顧みなかったから。子育てはつれあいに任せっぱなしで、子供と遊んだ記憶はあまりありません。自分としては、「子供が過ごしやすい、良い社会をつくるために一生懸命頑張ったのに・・・」と言い訳しながら生きてきたのかもしれませんし、あまりそんなことも考えずに生きてきたのかもしれません。
幌延闘争の時や泊100万人直接請求の時は、本当にそう思いました。「こんなものを我が子の将来につなげてはならない」と思って、頑張りましたけど、いま人生の終盤において、それで良かったのかと言うことも考えたりします。
人生ってほんとに一度っきりなんですね。
じゃんじゃん。
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