暗い話になるかもしれませんが・・・2016年04月11日 14:39

 お久しぶりです。総会準備に少し手間取っていました。
 なお、総会は、5月18日です。

 それで、今回は少し暗い話になってしまいますが、テーマは「同年代の死」です。ただし、決して自死ではありません。

 まず、2月に、月に一度は我が事務所に来ていた宗谷地協のT氏が事故のため亡くなりました。
 このときの気持ちは2月5日の「超・超・超 高齢社会」の出だしで書きました。本当に残念です。

 そして今度は、十勝のK氏がガンのため、無くなりました。K氏には、公私ともにお世話になりましたので、葬儀に行きたかったのですが、腰が上がりませんでした。
 結構、T氏の件が効いていたのです。

 さらに、さらに、今度は我が連れ合いの親友が突如亡くなったというのを、こともあろうに「お悔やみ欄」で知りました。知ったときにはすでに「本日が通夜」と言うことで、網走管内のため、弔電だけですませました。夏には事情を伺い方々、訪問させていただきたいと思っています。

 まだ1年の3分の一なのに、こんなに悔やみごとが続いてしまいました。連れ合いとともに、「友人ロス」になっているかもしれません。

 同じ「ロス」ですが、1969年、当時43才だったキューブラー・ロス女史は『死ぬ瞬間』を発表しました。当時彼女がいた病院では、「とんでもない悪評」と受け取っていましたが、多くの末期患者からは、感謝の気持ちが届いたと言います。
 我が国でも、昭和46年、『死ぬ瞬間』が日本語に翻訳されました。
 この本は、彼女が200人の末期患者と面接し、彼らの心理状態を、直接患者と接している医師の教育の一環としてまとめあげたものです。

 この本の中で、末期患者であると知らされた患者は、死を受け入れ、死に至るまで、5つの段階を経るといっています。なによりも意義深かったのは(1)それまでは医学が及ばない領域とされてきた「死」について、医師が言及したこと。(2)死にゆくプロセスを5つの段階として科学的に捉えようとしたこと、の2点とされます。

 例えば、ガンと診断された患者は、
 
第1段階 否認~自分がガンである現実を否認する。

「自分が癌になるはずがない」
「何かの間違いだ」
「この医者は誤診しているに違いない」

 最初に出てくる"自分が死に直面しているなんて真実ではない"という否定の態度は、衝撃的なニュースを聞かされたときに人間がとる、心の緩衝装置である。

第2段階 怒り~「どうして私ばかりがこんな目に!」

 自分はガンなんだという理解が始まると同時に、自分だけが死ななければならないことに対する怒りや、生き続ける健康な人々ヘの羨望、恨み、憤慨などさまざまな感情へと変化する。
 怒りはあらゆる方向――医師・家族・友人・果ては神にまで――自分以外のあらゆるものへと向けられる。


第3段階 取引~「神に生涯を捧げますので、病気を治してください」、「もし病気を治してくれたら、全財産を寄附します」

 神仏や超自然な力に対して『交換条件』のようなものを提示して、延命のための取引をし始める。

第4段階 抑うつ

 病気が少しでも進行したり、体力が衰えてくると、自分がガンであることや余命いくばくもないことを実感せざるを得なくなり、取引は無駄と考えうつ状態に陥る。

 抑うつには、告知の衝撃のあまり落ち込んでしまう「反応抑うつ」と、末期患者が世界との訣別を覚悟するために必要な「準備抑うつ」の二つがあると博士は言う。この準備抑うつの時期を経過することによって、患者はその後の死の受容と平和の段階に至ることができる。

第5段階 受容

 死を自分のことと受容し、死生観が確立する。穏やかになり、いかに自分が幸福な人生であったかを知る。

 この受容の段階とは、死を受け入れた幸福の状態ではない。受容の段階とは、もはや自分の運命について抑うつも怒りも覚えず、嘆きも悲しみも終わり、ある程度静かな感情もって、近づく自分の終焉を見つめている状態である。そこでは、ほとんどの感情はなくなっている。患者は、そっとひとりきりにされたいと望む。患者は、親しい人の手を握り、黙ってすわっていてくださいと頼むだけである。

 この変化は本人だけとは限りません。ごく近いそばにいる家族も、同じような反応を示します。
 また、この順番とも限りませんし、次の段階にいく期間もまちまちになるでしょう。途中から始まることもありますし、何度も繰り返すこともあります。

 まあ、しかし、この通りにはなかなか行かないでしょう。
 うちの両親などは、90と86ですが、「年寄り扱いするな」と本気で怒ったりします。その一方で、「来年は来るのか・・・」などと、やはり「死」というものの恐怖は感じているのだと思いますけど。
 かくいう私も、ことし65歳になりますから、「お悔やみ欄」にいつ載るかわかったものではありません。
 果たして、その直前に、「私の人生は・・・・幸せでした」とか、連れ合いや周りの人に「お世話になりました。ありがとう」と言ってから逝けるのか?

 結構大事だなと思うのは、若い頃は意識したこともないくせに、「宗教」というものですかね。
 我が家は浄土真宗本願寺派ですから、「南無阿弥陀仏」という称名をとなえて、極楽浄土に迎えていただくということになっています。
 うちの親はまるっきり意識していません。むしろ無神論に近いのかもしれません。
 しかしねぇ。人生の終盤には、やはり考えておくべきだろうにね。
 困ったもんです。じゃんじゃん。