「祈り」とはなにか その4 最終 ― 2015年03月17日 09:49
さて、この本もいよいよ終わります。
第2章の後半は、これまで述べた「祈り」がどのように効果をもたらすかと言うことに触れています。
まず第1に「利他行動で相手が変わるとき、自分も変わる」です。
人間の共感力の脳における土台は「ミラーニューロン」だそうです。これは字句の通り、相手の行動がまるで自分に起きたかのように「共有・共感」できるシステムで、相手を思って真剣に利他行動を取ると、脳内では相手と一体化し、その結果相手が苦しみや悲しみから蘇生したときにはまさに自分の喜びとして感じられることになります。
この例として、「菩薩道」があげられています。つまり、私たち「凡夫」も菩薩道を行じ続けていく姿の中に仏がある。もし、「成仏」というゴールにたどり着いてしまったら、脳にとっては退屈な状態で幸福感は一時的であり、脳はどんどん衰えていくだろう。そうならないためには、衆生を救うために利他行動を生涯続ける存在が「仏」なのだと説明しています。
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これは日蓮(法華宗)の教えです。中野さんは法華宗なのかもしれません。
ちなみに、浄土真宗では、阿弥陀如来が18番目の本願として「称名(南無阿弥陀仏)」を唱えたものは、現世の善悪を問わず浄土に招来するというもので、だから常日頃から称名を唱え、善行をせよと説きます。
また、禅宗では、道元禅師が「人は仏性を生まれながらにもっているのに、どうして修行しなければならないか」という問いを8歳?の時に問い始めて、仏道修行したと言うことが有名な話です。
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2番目は、「運の良い人、悪い人」です。
実はこれは人間がこの地球上で繁栄してきた根拠であると説明されているのです。
運が良かったから生き延びてきた?そうではありません。
ある研究があります。「認知的焦点化理論」難しい名前ですが、要するに「自己的で器量の狭い人は幸福感が薄く、人間関係が築けない」と言うことと、一方、「利他的行動を取る人は、盤石な人間ネットワークの本で、周囲の協力が「運がよい」というように見える」という対比です。
これがどうして人間の生存に関わってきたかというと、非力な人間が他の種と比べて唯一発達しているのが脳であり、互いに助け合うという「利他行動」によって生存を続け繁栄してきた。これが脳には快感として刻まれているということです。
ここから導かれるのが、「人は一人では幸せになれない」と言うことではないでしょうか。
具体的には「自己肯定感」や「自己評価の高さ」と言うことになりますが、残念ながら、日本人は他の国に比べ自己評価が低すぎます。しかも著しく。
「自分は誰かの役に立っている」とか、「自分は愛されている」と感じることによって、「もっと役に立ちたい」、「もっと愛されたい」と脳が感じることにより、脳神経の新生が促され、オキシトシンなどの分泌が増えて幸福感がさらに増すというのが脳科学からみた「幸福感」の結論です。
そこで、一つの例があげられています。
それは「ホロコースト(ナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺)」で生き延びた人は、決して体力的に勝った人ばかりでなく、「生きる意味」を持った人であったというのです。(フランクル 夜と霧)
ひるがえって、今の日本には、物質的な豊かさの一方で、「生きる意味」を失った人が多いと言うことがいえるのではないでしょうか。年間3万人近くの自殺者や、砂漠のような都会の人間関係は、脳を疲弊させた結果と言えないかということです。
最後の項目は「人を育むことの幸せ-オキシトシンと人材育成」です。
「愛されること」も幸福なら「愛すること」も幸福です。仏教で言う「慈悲」やキリスト教の「博愛」と言うことでもあるでしょう。
そしてこれは、日々戦場の職場でも「部下や同僚の成長を心から願う」という利他的行動で、あのオキシトシンが分泌され、深い幸福感をもたらすと言います。「人を育む」こと自体が幸福なことなのです。
その結果、組織もうまく活動できますが、それをもたらす人にも、悪玉物質の抑制や免疫力のアップ(がんの予防にも)の効果があります。
その例として、「ヘルパーズ・ハイ」があげられています。ホスピスで末期がんの患者と接する看護師たちが、心から尽くすとき、不思議な高揚感と多幸感を感じると言います。
また、仏教の「縁起」の思想と重ね合わせてもいます。「縁起」とは、「この世の全ては相互に関わり合って存在し、単独で存在しているものなど無い」と言うことですが、なぜこのことを言うかというと、自分と全ての他者は根源的につながっているとするならば、「自己犠牲の上の利他行動」はあり得なく、自己と他者の苦しみや喜びは同一であるという結論に行き着くからです。「自己」自体が意味を持たないことになります。
したがって、世に「聖人」と言われる人々や存在は、限りなく大きく広い「自己の範囲」をもったと言うことになるわけです。つまり「利他」と「利己」が同一化すると言うこと。
エピローグは「逆境」こそ幸福のもとと書いてあります。
仕事上の困難、家庭における問題など何らかの逆境に直面すると、あらん限りの力で乗りこえようとします。脳を振り絞るのです。
脳は、普段はリミッターが効いていて、100%の力を出さないようになっています。いつも100%なら脳も身体もぼろぼろになるからです。
それが、逆境への対処では、リミッターが外れることがあるそうです。
「何度も修羅場をくぐると器量や底力がちがう」といわれるゆえんです。
逆に、順風満帆な人は人間としてもろいとも言えます。
ただし、逆境に押しつぶされてスポイルされる人がいることも事実です。そうならないためには、日常的な利他的祈りが効果的だよというのがこの本の結論であると思います。
この本は、4年前の3.11をきっかけにしていて、「がんばってほしい」という気持ちがそこここにみられます。それが「脳科学からみた幸福論」ということなのかもしれません。
さて、私はどう感じたか?
聴きたいですか?聴きたい?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実は考えがまとまらないのです。
私のうちは浄土真宗西本願寺派で、いわゆる「お西」です。
そこでは、称名念仏を唱えたら、かならず阿弥陀様が西方浄土にご招来くださるということが宗旨の基本で、念仏を唱えることも、浄土に導かれることも、全て阿弥陀様のお力で、なにも心配することはないといういわゆる他力本願です。
そうすると、中野さんのイワッシャル「利他的祈り」ではなく、自分が浄土に行くための念仏であり祈りであるということですから、「利己的祈り」になってしまうんではないかいと、悩んでいるからです。
もちろん、家族の平安や両親の長寿など、ごく近いとこの自分以外については、利他的祈りはすると思うのですが、・・・・それでいいのかなぁ。
まぁ、あまり悩むと禿げるから。もう禿げてますけど、悩まないようにしましょう。南無阿弥陀仏。
じゃんじゃん。
第2章の後半は、これまで述べた「祈り」がどのように効果をもたらすかと言うことに触れています。
まず第1に「利他行動で相手が変わるとき、自分も変わる」です。
人間の共感力の脳における土台は「ミラーニューロン」だそうです。これは字句の通り、相手の行動がまるで自分に起きたかのように「共有・共感」できるシステムで、相手を思って真剣に利他行動を取ると、脳内では相手と一体化し、その結果相手が苦しみや悲しみから蘇生したときにはまさに自分の喜びとして感じられることになります。
この例として、「菩薩道」があげられています。つまり、私たち「凡夫」も菩薩道を行じ続けていく姿の中に仏がある。もし、「成仏」というゴールにたどり着いてしまったら、脳にとっては退屈な状態で幸福感は一時的であり、脳はどんどん衰えていくだろう。そうならないためには、衆生を救うために利他行動を生涯続ける存在が「仏」なのだと説明しています。
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これは日蓮(法華宗)の教えです。中野さんは法華宗なのかもしれません。
ちなみに、浄土真宗では、阿弥陀如来が18番目の本願として「称名(南無阿弥陀仏)」を唱えたものは、現世の善悪を問わず浄土に招来するというもので、だから常日頃から称名を唱え、善行をせよと説きます。
また、禅宗では、道元禅師が「人は仏性を生まれながらにもっているのに、どうして修行しなければならないか」という問いを8歳?の時に問い始めて、仏道修行したと言うことが有名な話です。
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2番目は、「運の良い人、悪い人」です。
実はこれは人間がこの地球上で繁栄してきた根拠であると説明されているのです。
運が良かったから生き延びてきた?そうではありません。
ある研究があります。「認知的焦点化理論」難しい名前ですが、要するに「自己的で器量の狭い人は幸福感が薄く、人間関係が築けない」と言うことと、一方、「利他的行動を取る人は、盤石な人間ネットワークの本で、周囲の協力が「運がよい」というように見える」という対比です。
これがどうして人間の生存に関わってきたかというと、非力な人間が他の種と比べて唯一発達しているのが脳であり、互いに助け合うという「利他行動」によって生存を続け繁栄してきた。これが脳には快感として刻まれているということです。
ここから導かれるのが、「人は一人では幸せになれない」と言うことではないでしょうか。
具体的には「自己肯定感」や「自己評価の高さ」と言うことになりますが、残念ながら、日本人は他の国に比べ自己評価が低すぎます。しかも著しく。
「自分は誰かの役に立っている」とか、「自分は愛されている」と感じることによって、「もっと役に立ちたい」、「もっと愛されたい」と脳が感じることにより、脳神経の新生が促され、オキシトシンなどの分泌が増えて幸福感がさらに増すというのが脳科学からみた「幸福感」の結論です。
そこで、一つの例があげられています。
それは「ホロコースト(ナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺)」で生き延びた人は、決して体力的に勝った人ばかりでなく、「生きる意味」を持った人であったというのです。(フランクル 夜と霧)
ひるがえって、今の日本には、物質的な豊かさの一方で、「生きる意味」を失った人が多いと言うことがいえるのではないでしょうか。年間3万人近くの自殺者や、砂漠のような都会の人間関係は、脳を疲弊させた結果と言えないかということです。
最後の項目は「人を育むことの幸せ-オキシトシンと人材育成」です。
「愛されること」も幸福なら「愛すること」も幸福です。仏教で言う「慈悲」やキリスト教の「博愛」と言うことでもあるでしょう。
そしてこれは、日々戦場の職場でも「部下や同僚の成長を心から願う」という利他的行動で、あのオキシトシンが分泌され、深い幸福感をもたらすと言います。「人を育む」こと自体が幸福なことなのです。
その結果、組織もうまく活動できますが、それをもたらす人にも、悪玉物質の抑制や免疫力のアップ(がんの予防にも)の効果があります。
その例として、「ヘルパーズ・ハイ」があげられています。ホスピスで末期がんの患者と接する看護師たちが、心から尽くすとき、不思議な高揚感と多幸感を感じると言います。
また、仏教の「縁起」の思想と重ね合わせてもいます。「縁起」とは、「この世の全ては相互に関わり合って存在し、単独で存在しているものなど無い」と言うことですが、なぜこのことを言うかというと、自分と全ての他者は根源的につながっているとするならば、「自己犠牲の上の利他行動」はあり得なく、自己と他者の苦しみや喜びは同一であるという結論に行き着くからです。「自己」自体が意味を持たないことになります。
したがって、世に「聖人」と言われる人々や存在は、限りなく大きく広い「自己の範囲」をもったと言うことになるわけです。つまり「利他」と「利己」が同一化すると言うこと。
エピローグは「逆境」こそ幸福のもとと書いてあります。
仕事上の困難、家庭における問題など何らかの逆境に直面すると、あらん限りの力で乗りこえようとします。脳を振り絞るのです。
脳は、普段はリミッターが効いていて、100%の力を出さないようになっています。いつも100%なら脳も身体もぼろぼろになるからです。
それが、逆境への対処では、リミッターが外れることがあるそうです。
「何度も修羅場をくぐると器量や底力がちがう」といわれるゆえんです。
逆に、順風満帆な人は人間としてもろいとも言えます。
ただし、逆境に押しつぶされてスポイルされる人がいることも事実です。そうならないためには、日常的な利他的祈りが効果的だよというのがこの本の結論であると思います。
この本は、4年前の3.11をきっかけにしていて、「がんばってほしい」という気持ちがそこここにみられます。それが「脳科学からみた幸福論」ということなのかもしれません。
さて、私はどう感じたか?
聴きたいですか?聴きたい?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実は考えがまとまらないのです。
私のうちは浄土真宗西本願寺派で、いわゆる「お西」です。
そこでは、称名念仏を唱えたら、かならず阿弥陀様が西方浄土にご招来くださるということが宗旨の基本で、念仏を唱えることも、浄土に導かれることも、全て阿弥陀様のお力で、なにも心配することはないといういわゆる他力本願です。
そうすると、中野さんのイワッシャル「利他的祈り」ではなく、自分が浄土に行くための念仏であり祈りであるということですから、「利己的祈り」になってしまうんではないかいと、悩んでいるからです。
もちろん、家族の平安や両親の長寿など、ごく近いとこの自分以外については、利他的祈りはすると思うのですが、・・・・それでいいのかなぁ。
まぁ、あまり悩むと禿げるから。もう禿げてますけど、悩まないようにしましょう。南無阿弥陀仏。
じゃんじゃん。
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